不登校・引きこもり ブログトップ
- | 次の10件

消えてしまいたい [不登校・引きこもり]

「失踪したい」
「消えてしまいたい」

このように語る人達がいる

人はどのような時に、このように思うのだろう?
その場に居たら、恥ずかしい想いをする
相手に否定される
居ても居なくても同じと感じるetc

どうして、そのように思うのだろう?
共通しているのは
「居ても居なくても同じ」
と語る言葉を聞く

消えてしまいたい
失踪する
のは
自分という存在が
その場に居ても居なくても同じ
つまり
「その場に居る意味がない」
と思うから

自分がその場に居ることの意味を見出せないから
「居ても居なくても同じ」
「消えたくなる」
「失踪する」
となってしまう

客観的に意味があるとか、ないとかは関係ない
自分が、その場に居る事の意味を見出せるかどうか
それが重要となる

人は、意味付けることで生きている
何らかの意味づけができなくなった時
「消えたくなる」
「失踪したくなる」

あなたは消えてしまいたいと思ったことはありませんか?
存在する意味を見出せていますか?
意味づけをもっていますか?

共に考えてみませんか?
語り合ってみませんか?

興味のある方は
シニフィアン研究所 むかい あいまでどうぞ
http://signifiant-lab.com/
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:育児

うつ-自分の鏡像が壊れる体験 [不登校・引きこもり]

やる気がでない
体がだるい
常に眠い
何もしたくない

これらはうつ状態への入り口
ある変化がそのキッカケとなる場合が多い

近親者や恋人、ペットなど情を寄せている対象の喪失体験
事故などによる体の一部など自分自身の喪失体験
転勤や転校、引越し、降格や昇進、栄転等の環境の変化
今回の東日本大震災など、自然災害による家屋、コミュニティーの喪失体験
目標喪失
などなど

これらに共通しているのは「変化」や「喪失」
愛する人はもちろん、大事にしていたペット、大切にしていた物など
それらはその人自身であり、そのすべて、もしくは一部となっていたもの
自分の姿を映してくれる鏡像となっていたものなら何でも良い
それに人は「思い出」「生きがい」「命」「すべて」と呼ぶ
つまりそれらは自分自身でもある
だから喪失体験は
まるで自分が亡くなったかのように感じる

「心にぽっかり穴が空いたようだ」
「自分の一部がもぎ取られたようだ」
「自分の存在価値がない」
「生きる意味がなくなった」
などと表現する
自分のまとまった姿を映してくれていた鏡が壊れる体験そのものである

うつ状態にある場合
重症の時期はエネルギーも枯渇しているから動けない
しかし、入り始めと回復途上で「自殺」の可能性が高くなる
引きこもり状態が必須であり
その期間は壊れた鏡像の修復する服喪期間でもある
刺激はより一層の鏡の崩壊を促すこととなる
ゆえに
可能な限り静かに刺激のない「安心」と「安全」の環境を必要とする
「がんばって」の言語は禁句となる
温かい眼差しで、口を出さず、見守り続けることが大切である

Φ シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:育児

引きこもることの大切さ [不登校・引きこもり]

「引きこもる」というと、
出ていかなければいけないのに出て行かない(出て行けない)状態を指して使われるが
ここでは
「引きこもる」ということ自体の必要性と大切さを述べてみたい

何らかの形で社会との関わりを持つことは、生きていく上で必要なことである
でないと、生きること自体が困難になる可能性が大きくなる
ゆえに、社会との何らかの関わりを持つことが要請される
このことは誰しも理解しているはずである

にもかかわらす、不登校やニートに代表される「引きこもり」をしている人たちは
知らなかったというのだろうか?
そんなことは考えにくい
では一体何を叫んでいるのだろうか?

一つは「自分の人生はこれでいいのだろうか?」という問いかけを持ち
    「じっくり自分と向き合いたい」
    「自分の人生を主体的に生きたい」
    「誰かの言いなりに生きるのは嫌だ」と叫んでいる
あるいは「育てなおしをして欲しい」
      「お母さんのお腹の中からやり直したい」
と、行動や身体を使って訴えているのではないか?と考えてみる

この観点から言うと
引きこもることは、「自己認識」「アイデンティティー」への問いかけだと言えないだろうか?

自分自身への問いかけと、それへの自分なりの答えを模索しつつ
それを基に自分の目指す理想像(自我理想)を描くことで
社会との接点を見出す
その事のたゆまない軌跡がその人の人生だと言えるだろう

この自我理想を描けなかったり、
それが他者の理想だったと気付いたなら、人は動けなくなるだろう
問いかけず、気付かずにいられたら
また、問いかけても「こんなもんだ」と早々に結論付けられたなら
きっと歩き続けられるだろう
これらのことは
すべての人が一度は問いかけたに違いない
そして、その時は、大なり小なり
その人なりの「引きこもり」の時と空間を持っただろう

引きこもることは
自分への問いかけに耳を傾け、真摯に生きたいと願い
早々に結論付けられなかった結果
社会との関わり方を決められない状態だといえると思う

これらの意味において
「引きこもり」は必要だし、大切な事象だと思う
そして、その時が到来したなら
満足するまで「引きこもる」場所と時間を確保できることが必須であろう

シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/

不登校や引きこもり [不登校・引きこもり]

家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。
このままでは将来どうなってゆくのか心配だ。何とかしないと!
一日も早く元の生活に戻さないと大変なことになってゆくのではないか?
このまま社会から脱落してしまい、ダメになってしまうのではないか
あるいは、どこか悪いのではないか?病院へ連れていかないと手遅れになるのではないか?
誰が悪いんだろう?私の育て方、接し方が悪かったのだろうか?
様々な想いが錯綜し、どんどん不安になってしまうのも当然のことでしょう。
こんな時、視点を変えてみましょう!!
 「なぜ?」と問いかけるのではなく
「何を言おうとしているのだろう?」と。
本人に聞いても、きっと「わからない」と答えることでしょう。
あるいは、友達が、先生が、授業が、、、と言うかもしれません。
それもあるでしょう。しかし、それらは一つのきっかけでがある場合が多いのです。

1) 聞いてみましょう「何かあったの?」と。
答えは期待しないこと。根堀り葉堀り聞かないこと。
感情的にならないこと。自分の想いを押し付けないこと。
「あなたに関心を持っている。大切な存在である。」ということを伝えることが目的だから。

2) 認めること
学校や職場に行かない、行けないことを指摘しないこと。
行かないとどうなるか、どれだけ大変なことか、困るかの話をしないこと。
 引き込もり状態になると、たいていは昼夜逆転し、お風呂や食事など日常生活が乱れてきます。
当然、家族は心配して注意したくなります。でも注意ではなく、声かけしましょう。
「ご飯できたよ」「お風呂わいたよ」「おはよう」「おやすみ」と。
家族の生活リズムを言葉で伝えましょう。
自分がどういう状態なのかは、誰よりも本人が一番知っています。

3)焦らないこと
一日も早く元の生活に戻って欲しいと焦らないことです。
やっと、ある意味で気づき、自己主張できるようになったのですから。
必要な時間をかけて、自らの意志で自分の人生を引き受けるようになると信じましょう。
人は誰でも「欠如」を自覚し「欲望」を持てば行動します。
動かない、動けないのは「欠如を自覚しない」「欲望がない」からです。
つまり、欠如を感じ(お腹がすいた)、欲望する(何か食べたい)から行動する(冷蔵庫を開けて探す、
スーパーやコンビニへ行く)のです。
決して怠け者ではないのです。
何らかの事情で欲望がなくなった、あるいは無いことに気づいてしまったのでしょう。

4) 気長に見守りましょう
家に引きこもっているのなら、家が一番の居場所です。学校が居場所の人もいるかもしれません。
友達の家が居場所なら友達の家に行くでしょう。居場所が無いと言う人には居場所を作ってあげましょう。
居場所が無いと、あちこち転々と居場所を求めるか、家の中の決まった場所に引き籠って動かないでしょう。
家以外の場所に出て行くからといっても、必ずしも社会へ出る一歩だとは限りません。

5) 悩み、苦しみは同じ悩みを持つ人と語り合い、吐き出し合い、学びましょう。
ただ、愚痴の吐き出し合いに終わるのではなく、気づいたことを話し合い、学び合いましょう。
「あなたのことを心配しているから」という名の下に、本人に吐き出すのは
双方にとって悪循環のもとになる可能性が高いからやめましょう。

6) これを機会に問いかけてみては?
不登校や引き込もりというメッセージはどういうメッセージなのだろうか?
何を言いたくて言えないのだろうか?
不登校や引き込もりがきっかけで家族に何か変化があったか?
今までとは違ってきたことはないだろうか?
本人だけではなく、家族全体のこととして見たとき、何か見えてくることはないでしょうか?

7) 必要だからしている
言葉で説明できないけれど、なぜだか解らないけど、これだけは確かなこと。
「今、自分にとって必要だからしている」

追記
・家族、本人が自ら「不登校」「引き込もり」と言わないこと。
 それらの呼称は、ある枠組みから付けられたもの。
 その言葉を自ら語るということは、それが意識的、無意識的であるに関わらず
 その呼称を自ら承認した、受け入れたということに繋がることだから。
 時には、その呼称が隠れ蓑のようになり、
 知らぬ間にその中が妙な居心地の良さを与え、
 そこからの歩み出しを目指しながらも、いつしか狭い居場所となり、時には排他的にもなるかもしれない。
 例えば
 「経験した人にしか分からない」
 「他の人に話したってどうせ理解してもらえない」
 「経験者同士だから、分かってもらえる、分かってくれているはず」
 「私たちは他の人達と違う」
こんな気持がどこかに生じたなら、同じ悩みや目的を持った場がいつしか単なる愚痴の吐き出し合いや
理解しない人たちへの非難や批判に終始する可能性が出てくる。
そして、そのことがその場に居る人の求心的で排他的なエネルギーとなって、逆にどんどん小さくなり
やがて消滅する可能性も出てくるかもしれない。

それを防ぐには、異分子だと思える他者を受け入れること。
その他者と同化するのではなく、異分子なら異分子のままでその場に抱き込みつつ
その異分子の目線から自らを見てみる。
これが求心力を持ちつつ、外へとどんどん広がってゆくパワーとなると思う。
それがひいては、家族の中にある様々な悩み、苦しみや問題にも通じるのではないだろうか?
物事の是非を問題にするのではなく、
なぜだか今は理解出来ないけれど必要な事柄なんだろうと抱き込んでゆく視点、
それを「承認」あるいは「受容」と呼んでよいと思う。

お問い合わせは シニフィアン研究所へ http://signifiant-lab.com/

居場所がない―消えてしまいたい [不登校・引きこもり]

「自分の居場所がない」という人は
自分という存在を肯定してくれるただ一人の人が居なかったということ
自分の居場所があると思える人は
自分を肯定してくれるただ一人の人がいる
自分がある特定の誰かに必要とされている
自分がその人の心に存在している
そして、自分もその人を必要な人、大切な存在だと思えるということでもある

人はどうして自分を肯定してくれる他者を必要とするのだろうか?

それは、人が人となってゆく過程の中で、どうしても自分を映してくれる他者(鏡)を必要とするから
人は生きるに必要な衣食住があれば自然に人となってゆくのではない
体の成長に応じて心も成長してゆくのではない
心は適切な世話行動と他者からの語らいによって成長してゆくもの
人が人となってゆくには
「私は○○の人間です」と語れること
すなわちアイデンティティーを持って社会に参入するということでもある

自分はどんな人間か?
それを形成するためにはどうしても他者を必要とする
つまり「鏡」と必要とする(ラカン「鏡像段階」)
いわゆる姿形を映す鏡を見て「私ってこんな体型、顔形なんだ」と知ること
そしてもう一つ大切な鏡
それは他者から「あなたは○○な人ね」と語られること
この両方の鏡に映る姿を総合して(快感原則が作用する)
私って○○な人間だと思う(想像的同一視)

私は私だと言ったとしても
それを肯定してくれる人が皆無だったなら
独語の世界を脱せない
なぜなら言語は自己言及の不可能性を内包しているものだから
自分以外の他者が「それがあなたよ」と肯定してくれて初めて
自分は自分であると同定できる
他者からの承認があって人は自分を○○な自分だと認められる
最初期にはこのような他者承認がどうしても必要となる
また
自分とはどういう人間であるかを知るためには、ただ一人の人を必要とする
複数は必要としない
なぜなら複数になれば、複数の映し方(語り)があり、一定しないから逆に混乱の元になる

このようにして肯定してくれるただ一人の人を持てなかったなら
その人は後に社会の中で否定に出会ったとき
どこにも自分を見いだせずに立ち止まってしまうだろう
「自分とは?」の問いかけに答えられなくなるだろう

自分の居場所とは、ある自分固有の空間的な場所があるだけでなく
何よりも自分を肯定してくれるただ一人の人(場所)があると思えることである。

自分の居場所がないと感じている人は
やがて「この世から消えてしまいたい」と 思い
失踪してしまう可能性が出てくるだろう

お問い合わせは
シニフィアン研究所 090-1951-1978 むかい あいまで

社会参入するとは [不登校・引きこもり]

社会参入するとは、徒党を組んでおしゃべりをする仲間の一員になることではない。
ある組織や団体に所属することをもって、社会参入しているとは言いがたい。
社会という象徴的なものが支配する中に、自らも象徴的なものとして参加することである。
象徴的なものを介して他者を認め、
自らも他者と共に象徴的な存在として社会の一員として認められることである。
つまり、「どう自己規定しているか」
「何のためにそこにいるか(それをしているか)に答えられること」である。

ある集団や組織は、ある理念や目的という象徴的なものの下に集う関係性をもち、機能している。
そこにある理念や目的に賛同しなくなったなら、帰属する意味を見いだせなくなる。
その時、問いかけが生まれることになる。
「どうしてここにいなければならないのか?」
「どうしてここにいる意味があるのだろうか?」
この問いかけに、
それなりの答えや理由(内容は何であれ)が見いだせたならよいが
理由付けができなかったなら、人は立ち止まってそこから動けなくなってしまう。

社会は殆どすべてが象徴的なものに満ちている。
紙幣などはその代表である。
元々は「紙」であり、そこにある一定の模様や数字などが規約によって作られたものである。
それが想像できないような価値を帯びて流通し、人を動かし
時には戦争にまで発展することもありうる。
ところが、一度、何の価値もないとなったなら元の紙くず同然のものとなる。
そこに生きる人達が、そのものに象徴的な意味付けを認める限り
それなりの価値と意味付けを帯びて機能する。
つまり、「信用」と言われるもの。
世の中の象徴的なものを信じられなくなったら、人は生きられなくなるだろう。

何よりも人は象徴的な存在である。
その証左として、固有名詞として戸籍に登録される。
そして、その社会で象徴的な存在であると認知される。
自分を社会の中で象徴的な価値ある存在であると規定できるからこそ
他者も社会も自分にとってそれなりの価値があり、生きる意味があると規定できる。
自己規定できるからこそ意味を見いだせる。
社会が不完全で不満だらけだとしても
自らも象徴的なものの一部として参加してゆける。


Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/

引き込もりは巣作り [不登校・引きこもり]

引きこもって外に出ない、出たくないと思う
そのように言語化できずに引きこもってしまう
そのきっかけとなる理由は様々だが
根本的には何かをしたいという欲望が無いと言える

欲望がないのは、欠如を知らないからでもある
自分には何が欠如しているのか?
足りないものは何か?
これがはっきり自覚できないと「欲しい」が出てこない
この欲望を知る、持つ以前の問題として
しっかり自分だけの安心できる空間(巣)を作ることが必要である

その意味において「引き込もり」は自分の「巣作り」だと言えるし
人は必ずその時期を必要とするようだ
「引き込もり」はエネルギーがなくなったとか
自我が脆弱だとか言われたりするが
何よりも「巣作り」の時期だとも言えよう

そのためには
自分だけの部屋を持ち、中から鍵をかけて誰も入れない空間を作る必要がある
この個室が作れない場合は
押入れやダンボールや部屋の隅っこがその代わりになる
家の中にその空間が作れないときは外に求める
誰も知らない自分だけの空間、邪魔されない安心できる場所を見つけ
そこに閉じこもる
たっぷり満足したら必ずそこから巣立つ時がくる
それを周りが邪魔せず暖かく見守れるかどうか?
密度濃くできるかどうかが、巣立つまでの時間を決めるとも言えるだろう

親鳥が巣を作り、安心してヒナを育てるのと似ている
その間親鳥がすることはただ一つ
ひたすら卵を温めて守ること
決してそこを離れることなく温めるだけ
それ以外は何もしない
何もしないことが一番必要な仕事となる

巣作りをし、安心して自分を育てること
この間はただただ何もせず、エネルギーを使わないこと
これが結果的に巣立つときのエネルギーにもつながる

引きこもったなら周囲は決して邪魔をせず、
巣立つ時を温かい眼差しで見守ること
決して口を出さないこと
つまり、巣立ちを求めないこと
この体験を持てなかったなら個の確立が難しかったり
自分と他者の区別がつかなかったり
はては他者が侵入してくるイメージを持ったりする可能性が出てくる    


Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/   
- | 次の10件 不登校・引きこもり ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。