451)祈る [家族]

整心療法研究所へようこそ。

今回は『祈る』について書きます。

どんなに愛する対象であっても、その人の人生を生きることは不可能。人は自分の人生しか生きられない。
他者のためにとどんなに願っても思い通りにはならず、時には腹を立て、感情のままに吐き出すこともある。その対象が近しい存在であればあるほど、制御は難しくなる。特に女性、なかでも母親の子どもに対するそれは強いようだ。
口に出さずとも態度の端々から強烈に放っている。時にその気迫は言葉以上のものがある。
そのエネルギーを違う方向へ転換させることができたなら、、、

その1つが「祈り」。
口に出さずに心の中で念じ続けること。

ある人のエピソードを思い出した。
四柱推命を中心に様々な人生相談をしているおばあさんに占ってもらった時に言い含められたことだという。

あんたは非常に強い星の下に生まれている。あんたはとても強い念を持っている。あんたの一念で人を殺すことができるくらいの強い念だ。自分が出した念はやがて自分に返ってくる。その強い念を人の幸せのために使いなさい。

その真偽のほどは知らない。
ただ、一念岩をも通す、との故事ことわざもある。
「祈る」は、愛する対象に対してできることの1つ。そしてシンプルでありながら、時として意識をすり抜けて相手に緩やかに、しかし大きな作用を与えることがあるのではと考えている。

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450) 捨てる・手放す [家族]

整心療法研究所へようこそ。

今日は『捨てる、手放す』について書きます。

頭では分かっているけど、行動できない。

手放すことの不安に直面している。その不安を手なずけることがなかなかできない。

エイッと決意しても、不安が押し寄せてくる。そして捕まってしまう。

どれくらい繰り返しただろう。

そこにエネルギーを費やしてしまい、やがて疲れ果てる。「もういいや」と腰を下ろす。

誰にもありがちなこと。



捨てる、手放すこと=何もなくなってしまう。

こんな公式がどこかであるのではないか。

なくなる=消滅=空っぽ=穴=吸い込まれてしまう=恐怖etc



しっかり握った手にはそれ以上入らない、開いた時あらゆるものを掴める可能性が広がる。



捨てる、手放すの向こう側に描く世界によってそれは決まるのではないだろうか。

次の欲しい何か(しあわせ)を掴むために今掴んでいるものを手放す。

次の何かが間違いなく掴めるならきっと手放すことだろう。

ということは、今ある何かを捨てる、手放すことの不安よりも次の何かを掴むことの不安が大きいと考えられる。

捨てられない、手放せないのは実は次の何かに対しての安心感を描けないから。

それを描ければきっと捨てられる、手放せる。

こんなことを考えてみた。
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427) 環境を変えると自分が変わる [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「環境を変えると自分が変わる」 について書きます。

『孟母三遷』という言葉があります。
これは、 「子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には環境を選ぶことが大切であるという教え。」と辞書にあります。
子どもに限らず人は環境が変わると知らないうちに変わっていくようです。
では、どうして環境が変わると人は変わるのでしょうか。
ここでは、身体に受ける刺激が変わるという観点から考えてみたいと思います。

人は日々刻々と変わる刺激を身に受けて暮らしています。
経験したことのない刺激に対しては意識するけれど、慣れた刺激に対しては意識しなくなるといわれます。
つまり、慣れた刺激に対してはその都度意識しなくても身体が勝手に反応するようになっている。
逆に、慣れない刺激に対してはその都度意識し、それに対する反応を模索するといえます。
ここから身体に受ける刺激を変えるとそれに対する反応が変わる。 反応が変わると結果的に行動が変わることになります。 刺激を変えるには例えば環境を変えればいい。 つまり、「環境を変えれば自分が変わる」ということになります。

こうして環境を選択することで自分を意図的に変えることは可能だと考えます。
他にも『朱に交われば赤くなる』『旅の恥はかき捨て』などがあります。
これらからも、人は環境に左右されやすい、環境によっていかようにも変われるといえるのではないでしょうか。

自分を変える方法は数多あると思います。
ここでは、環境を変える=刺激が変わる=反応が変わる=行動が変わる=自分が変わるとの観点から書いてみました。

twitterでは随時気づいたことを投稿しています。
興味を持たれた方はアクセスしてみてください。https://twitter.com/rakuhomanami
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424) 鏡の中の私 [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「鏡の中の私」 について書きます。

目は目そのものを見ることは不可能。だから人は鏡に映して見る。
毎朝鏡を見て化粧したり、洋服を選んだりしている。
それでも時々、鏡に映して確認している。
街のショーウインドーに映った自分の姿を見る。
鏡に映った自分の姿や顔を見て何をしているのでしょうか。
どうやら自分のイメージ通りになっていることを確認し、安心しているようです。
つまり、自分が想像している姿と鏡に映る姿が一致していることの確認をしている。
それほど、人は自分の見え方を気にしているといえます。
一日のうち、どれほど自分の姿を見ているでしょうか。
どうしてそんなに見るのでしょう。

人の目が気になる。 人がどう思っているか気になる。 何か言われるのではないかと思うと人の中に出ていけない。 このように語る人たちがいます。

なぜ人は、それほどまでに他者の目を気にするのでしょうか。

こうのように考えていると、鏡の中の自分の姿とそれを見ている自分の関係は、自分と自分を見ている他者の関係に重なってきます。
つまり、鏡=他者。人は他者の中に自分の姿を映していると考えられます。
もっというと、人は他者を見ているのではなく、他者の中に映る自分自身を見ている。
他者がどのように見ているか=自分の姿
他者に良く見られたい=良い私
他者に好かれたい=好かれる私 etc
だから人は他者の目を気にする。

こうして、私たちは他者という鏡の中の私を見て生きている、他者という自分の姿に翻弄されていると言えるのではないでしょうか。

シニフィアン研究所  http://signifiant-lab.com/
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420)根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ」について書きます。

デラシネとは、辞書によると「根無し草のことで、転じて故郷や祖国から切り離された人」とのことです。ここではこの意味を転じて、「心の居場所から切り放された人=居場所がないと感じている人」として考えてみることにします。

「どこにも自分の居場所がない」
このような表現を聞くことがあります。
物理的に居場所と定められた場所があっても、その本人が自分の居場所だと実感しない限り、意味をなしません。
つまり、居場所があるとは、「ここが自分の居場所だ」と感じる場所があることを指します。この意味において、根無し草(デラシネ)とは「心の居場所がないと感じている人」となります。

ここが自分の居場所だと感じるとはどういうことでしょう。
居場所があるとは、自分が居る居ないに関わらずその場所が確保されているということ。
いつでも自分の座る場所が存在するということではないでしょうか。
自分が気ままに行っても、常にその場があること、あるいはそのように思えること。
もっというと、自分の気ままにしても許される場があるということ、歓待される場があることだと考えます。
たとえ離れていたとしても自分には帰る場所があると思える。 このような場があると思える時、人は「自分の居場所がある」というのでしょう。

それとは逆の場合を根無し草(デラシネ)といいます。しっかり根を下ろしたいと切望しつつ、どこにも自分の居場所がないと感じ、結果的に放浪することとなる。

以上のことから根無し草(デラシネ)人には「定着」という言葉の意味が理解できない可能性があります。なぜなら、「定着」とはしっかりとつくこと、一定の場所に落ち着くことという意味だからです。

では、定着するにはどうしたらいいのでしょう。
それにはまず、自分の場所(席)を作ってもらうことからスタートです。
すべてはそこからです。それができないとその先はないといっても過言ではないでしょう。

蛇足ですが、「定着」以外にも「着」のつく熟語を調べてみると、密着、帰着、決着など興味深いものが出てきます。
興味のある方は一度検索してみてください。

______________________________________

≪9月度関西出張のお知らせ≫

*1日(火)~3日(木)大阪市・和歌山市

面談・インテグレーター養成講座・≪人間講座-象徴界に生まれる≫・フリートーク(テーマは『分かち合う』

*8月31日(月)・9月4日(金)埼玉県大宮市

詳しくは、シニフィアン研究所のHPhttp://signifiant-lab.com/Twitterhttps://twitter.com/rakuhomanami、を参照、連絡ください。
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403)ダイエットと言語-言語でやせる [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「ダイエットと言語-言語でやせる」 について書きます。

「ダイエット」と聞いて興味を持つ人、かつて挑戦した人はかなり多いのではないでしょうか。
ところがなかなか成功しなかったり、続かなかったり、リバウンドしたりなどなど。

ここで、先日ある人から聞いた体験を紹介します。
それは表題にも書いたように「言語でやせる」です。
それにはただ一つのことを実行し、継続することだそうです。
それは、
≪食事の度に『いただきます』と『ごちそうさまでした』を声に出して言うこと≫

これなら簡単、すぐに実行可能です。あるいは、もうすでに実行している人もいるでしょう。
では、食事の度に声に出して言うことがどうしてダイエットに繋がるかを考えてみます。

要因は二つ。
一つは「声に出して言う」もう一つは「区切る」です。

最初に「声に出して言う」から考えます。
声に出して言うことは、誰よりも声を出した本人が聞きます。
頭の中で思い浮かべるだけではすぐに消えてしまう可能性が大きい。
思い浮かべたことを声に出して言ってみることで、自らの耳で聞いて再確認することになります。
語った自分の言葉にハッとした経験のある人も多いのではないでしょうか。
このように、声に出すことによって自ら再確認する効果の可能性が考えられます。

次に「区切る」を考えます。
区切るとは、食べている状態を切る=食事は終わりということです。
これは、いただきます= 食事の開始を意味し、ごちそうさま=食事の終わりを意味するということです。
ここである人のエピソードを紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 半信半疑で聞いたことを実行し始めたある日のこと。 いつものように食事に続いてお菓子を食べようとした時、突然、その人の脳裏に 「あ、そうだ、私はもう『ごちそうさま』と言ったんだ」と蘇ったと同時に伸ばした手を反射的に引っ込めたそうです。 この時、その人は半信半疑の気持ちが納得に換わったと語りました。 それからは、以前に増して、かみしめるように毎回大きな声で 『いただきます』と『ごちそうさま』と言うようにしているとのことです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎回このように手が引っ込められるとは限りません。
ですが、毎回言葉に出して言うことで、「食事をしている自分」と「食事を終えた自分」をしっかり区切ることがその結果として体重減少という現象をもたらすのだと考えます。

以上のように、言語が身体に大きな影響を及ぼす好例を紹介しました。
まず「言語(言葉)ありき」
その言語をどのように決め、使うかによってその結果が違ってくると考えます。

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興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

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388)楽にいきましょう [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「楽にいきましょう」について書きたいと思います。

『楽』の文字を何と読みますか?
「ラク」「ガク」「タノシイ」「タノシム」、漢字源によると「カナデル」「ササ」「モト」「ヨシ」 とも読めるそうです。

それはさておき、『楽』はラクであり、タノシイでもあると考えてみます。
すると、楽なことは楽しいことなります。
人生を楽しみたいのなら、楽なことをすればいい。
≪楽すれば人生は楽しい≫
シンプルで、簡単に思われます。

ところが、
「そんなことしたらダメだ」
「そんなことは世間では通用しない」との声が聞こえてくるという人がいます。
自分よりも相手のことをまず考えて、相手が喜ぶように行動する人。
時には自らすすんで苦を引き受け、それを克服してこそ素晴らしい人生だと自負する人もいます。
そのような人を強い人、あるいは人格者と呼ぶのかもしれません。
そんな人をお手本にしなさいと見聞きした記憶があるかもしれません。
そのような生き方の向こうに充実した人生が待っていると語る人もいるでしょう。

十人十色の生き方があって、それぞれがその人にとっての生き方。
それについて肯定も否定もしません。
ただここではもっとシンプルに言いたいと思います。

『楽にいき(生き、行き、活き、良き、息、好き、意気、往き、逝き)ましょう』
こんな人生もまた楽しからずやではないでしょうか?

もし何かを背負っていると思う人がいたなら、そろそろ下してみませんか。
そして、これから楽にいきませんか。

シニフィアン研究所ではそんなことをしています。
HPはこちらです。http://signifiant-lab.com/
Twitterでは毎日つぶやいています。https://twitter.com/sindoumaki

382)早期に人生の決断をしている [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「早期に人生の決断をしている」 について書きます。

人は成長の過程で、その都度その人なりの決断をして生きています。
しかしその決断は、幼少期にしたそれの反復であり、そのプログラムに気づかない限り変更されることはない。
つまり、あるエピソードを通して決断したプログラムに従っていく という一例を紹介したいと思います。

ある人が「私は貧乏でお金の苦労をしてきた。なのになぜか、お金を欲望しなかった。」と語りました。
通常、お金で苦労したら、お金が欲しい、お金持ちになりたいと思うのは納得できることです。
ところが、その人はそう思わなかったというのです。
本人も不思議だと思っていたそうです。

ある時の分析場面で、その理由が明らかとなりました。
というのは、ある幼少期のエピソードを思い出したからです。
内容はさておき、その時その人が思ったことは次のことでした。

≪お金を貯めたら、必ずなくなる。≫

当然、このエピソードはその時を限りにすっかり忘れ去られていました。
数十年を経て、ある時の分析の語らいの場で思い出されたのです。
このことを語った瞬間、その人は叫びました。
「あの時に私はお金を貯めることを止めたんだ。」
そしてその人は理解しました。
なぜ自分がお金に困りながらも決して欲望もせず、貯めようともしなかったかということを。
まさしく長年の謎が解けたのです。

分析家に語るという行為の中で、自らの謎に自らの語らいで気づいていく。
もっというなら、自らの謎を自らが解いたのです。
同時にその人は、人生の早期にあるエピソードをきっかけに、自分の人生を決定してしまうことがあることを教えてくれました。


語ることは自らの無意識に気付く有効な手段の一つです。
自分を知ることを厭わない方、」興味を持っている方は語ってみませんか?
長年の自分の謎が解けるかもしれません。

シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/ を参照ください。
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360)だましのテクニック―言語の威力 [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「だましのテクニック―言語の威力」 ついて考えてみます。

オレオレ詐欺、振り込め詐欺など、詐欺被害が横行している昨今です。
どうして人はだまされるのでしょうか?
それは言語の威力(言語に隷属しているから)だということを考えてみたいと思います。

例えば、「有名ブランドの紙袋」の話です。
ある女性に聞いた話です。
毎日お弁当を、高級ブランドの紙袋に入れて通勤しているのだそうです。
彼女曰く、「だって、中に高級ブランド商品が入っているように見えるでしょう。もしくは、そこでお買い物をしてる人だって思うかもしれないでしょう。」(ちなみに、それらの紙袋がネットオークションでも売買されているそうです)

彼女は何を語っているのでしょうか。
これは、紙袋に書いてある文字やロゴマークから連想するものと、実際の中身が違っています。
そして、そのことで中身に関係なく、紙袋が高級ブランドの商品を連想させるというのです。
もちろん、すべての人がそのように考えるとは限りません。
が、少なくとも、その高級ブランドに関心のある人は何らかの思いを持つことでしょう。
彼女は意図して持っていたようですが、意図しなかったとしても同じように思う人が少なからずいるでしょう。
つまり、意図するしないに関わらず、紙袋の文字やロゴマークなどがその中身を指し示す機能を持っているということです。

もう一例。
スーパー銭湯が盛況だそうですが、その入り口には「のれん」が掛かっています。
そして、のれんには「男湯」「女湯」と書かれているのを知っています。
あるスーパー銭湯では、日時によって交代するのだそうです。
その時、どうするのかというと、「のれんを交換する」のです。
つまり、それまで「男湯」だった湯舟が、その瞬間に「女湯」に変わるのです。
当然、私たちは「のれんの言語」に従って入って行きます。
ここで、万が一間違っていたらどうなるかは、想像に難くないでしょう。

これこそが、まさしく「だまされる」可能性が口を開けて待ち受けている場(穴)、時ではないでしょうか。

私たちは、その中身が何であるかよりも、何と書いてあるか、何のロゴマークなのかでまず中身を想像し、判断する傾向にあるのです。
つまり、言語に従って想像することになります。
というよりも、想像させられているという方がいいかもしれません。
そして、その自らの想像を吟味せずに信じるかどうかが、だましの穴に落ちるか落ちないかの瀬戸際です。

詐欺師と呼ばれる人たちは、これらのことをよく理解していて利用するのです。
そして、言葉巧みに人をだますのです。
これらはすべて、私たちが日々言語に従って生きているからです。
言語や記号は、それぞれある意味を想像させ、指し示す機能を持っています。
だからこそ、我々は互いの意思疎通を図れるのです。
また逆に、言語に振り回され、だまされ、喜怒哀楽にもてあそばれることにもなる。

「言霊」「人を生かすも殺すも言葉一つ」「言葉が身に染みる」「言葉に感動した」「言葉が胸にぐさりと突き刺さる」「ペンの力」etc

私たちは言語によって、生かされもすれば、殺されたりもする。
このように言語は、人の生死に関わる威力をも持っているのです。
だまされる可能性の穴はすべての人に開いています。
それは人は言語に従って生きているからです。
これらを、ジャック・ラカンは「人は言語に隷属している」と言いました。

日常生活の中で、「言霊」とも言われる言語を、人を生かし、自分を生かすために使いたいですね。

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352)一家団欒(だんらん) [家族]

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題だと実感することでしょう。

今日は、「一家団欒」 について考えてみます。

「一家団欒(いっかだんらん)」=一家族が集まってなごみ楽しむこと
辞書にはこのように表記されています。
核家族化と呼ばれて久しいですが、どれだけの家族がこの団欒を時をもっているでしょうか。
その是非はとまれ、
ここでは、食事を中心に一家団欒がもたらすものについて考えてみます。

そしてそれは、「共食」「共感」「共生」であり、それが安心・安全の基であり、それが心身共に安らぎをもたらすと言いたいと思います。

「共食」とは、ここでは文字通り、一つの食卓につき共に食事をすることを指します。
食卓に家族が一堂に会するということです。
それは、お互いが時間と空間を同じくすること(時空の共有)を意味します。
「共感」とは、母の調理した料理を口にし、それぞれの味わいと感想を共有すること(味の共有)をいいます。
「共生」とは、共食と共感により、共に生きていることが実感できることを指します。

改めていうまでもなく、「食」は人が生きていく上でその基本となるものです。
必要な栄養を取ることだけが目的ではなく、「食」を通して様々なものを取り入れることでしょう。
素材、調理方法、食器、雰囲気などなど、数えきれないくらいの付加されるものがあります。
それらすべてを含めての食事の基本が、まずは家庭の食卓であり、
そしてその基本となるものが「共食」「共感」「共生」だといいたいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

子どもの様々な問題と向き合っていると、ある共通点が見えてきました。
すべてとは言いませんが、かなりの子どもが個食(孤食)の傾向にあるのです。
ある小学生に聞くと
「別に普通、1人でテレビ見たりゲームをしながらの方が楽しいし、、、」と言いました。
ある年齢以上になると、家族が一堂に会することは難しくなることでしょう。
だとしたら、それまでの時期に「共食」の楽しさを可能な限り体験させてあげたいものです。
共に食べ、共に語り、共に味わうことの楽しさを知る。
それが「我が家の味」であり、「おふくろの味」と呼ばれてきたものではないでしょうか。
その上にさまざまな味の体験を重ねていく。
家庭(母)の味を比較参照として「美味しい」「イマイチ」「口に合わない」などと語るのだと思うのです。
家庭の味を知らないとは、まさしくこの母の味を知らない、一家団欒の時と空間を味わったこと、味の基本となるものがない、ということではないでしょうか。

………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何よりも人がホッと安らぎを感じるのは、昔なつかしい味に出会った時では?
「何故かなつかしい気がする」
「なぜかホッとする」
「何故か分からないけど好き」
と表現する時は、どこかで「我が家の味」、それはまた家族(母)との思い出に繋がっている、そのように思うのです。

「同じ釜の飯を食った仲だ」
「同じ鍋をつついた」
「一つのパンを分け合った」etc

これらの体験が心身の栄養素となり、成長をよりいっそう促す。
心身の健康はまず食卓から、一家団欒の時空から始まると言いたいのです。

多忙な時を生きている私たちですが、日に一度、週に一度、月に一度でも「一家団欒」の時間と空間を可能な限り持ちたいと思っていませんか。

今日は「一家団欒」について書いてみました。
ひょっとしたら死語となりつつある、あるいはもうすでになっているかもしれません。
それでもやはり古くて新しい言葉だと思います。

シニフィアン研究所の迎意 愛からのメッセージです。
HPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

★個食とは、 (「孤食」とも書く)家庭で、家族が団欒(だんらん)することなく、一人で食事をすること。また、一人一人がばらばらの時間に食事をとること。
・個食とは、家族が集まっていても各人個別の食事を取ること。

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