社会参入するとは [不登校・引きこもり]

社会参入するとは、徒党を組んでおしゃべりをする仲間の一員になることではない。
ある組織や団体に所属することをもって、社会参入しているとは言いがたい。
社会という象徴的なものが支配する中に、自らも象徴的なものとして参加することである。
象徴的なものを介して他者を認め、
自らも他者と共に象徴的な存在として社会の一員として認められることである。
つまり、「どう自己規定しているか」
「何のためにそこにいるか(それをしているか)に答えられること」である。

ある集団や組織は、ある理念や目的という象徴的なものの下に集う関係性をもち、機能している。
そこにある理念や目的に賛同しなくなったなら、帰属する意味を見いだせなくなる。
その時、問いかけが生まれることになる。
「どうしてここにいなければならないのか?」
「どうしてここにいる意味があるのだろうか?」
この問いかけに、
それなりの答えや理由(内容は何であれ)が見いだせたならよいが
理由付けができなかったなら、人は立ち止まってそこから動けなくなってしまう。

社会は殆どすべてが象徴的なものに満ちている。
紙幣などはその代表である。
元々は「紙」であり、そこにある一定の模様や数字などが規約によって作られたものである。
それが想像できないような価値を帯びて流通し、人を動かし
時には戦争にまで発展することもありうる。
ところが、一度、何の価値もないとなったなら元の紙くず同然のものとなる。
そこに生きる人達が、そのものに象徴的な意味付けを認める限り
それなりの価値と意味付けを帯びて機能する。
つまり、「信用」と言われるもの。
世の中の象徴的なものを信じられなくなったら、人は生きられなくなるだろう。

何よりも人は象徴的な存在である。
その証左として、固有名詞として戸籍に登録される。
そして、その社会で象徴的な存在であると認知される。
自分を社会の中で象徴的な価値ある存在であると規定できるからこそ
他者も社会も自分にとってそれなりの価値があり、生きる意味があると規定できる。
自己規定できるからこそ意味を見いだせる。
社会が不完全で不満だらけだとしても
自らも象徴的なものの一部として参加してゆける。


Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
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