不登校や引きこもり [不登校・引きこもり]

家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。
このままでは将来どうなってゆくのか心配だ。何とかしないと!
一日も早く元の生活に戻さないと大変なことになってゆくのではないか?
このまま社会から脱落してしまい、ダメになってしまうのではないか
あるいは、どこか悪いのではないか?病院へ連れていかないと手遅れになるのではないか?
誰が悪いんだろう?私の育て方、接し方が悪かったのだろうか?
様々な想いが錯綜し、どんどん不安になってしまうのも当然のことでしょう。
こんな時、視点を変えてみましょう!!
 「なぜ?」と問いかけるのではなく
「何を言おうとしているのだろう?」と。
本人に聞いても、きっと「わからない」と答えることでしょう。
あるいは、友達が、先生が、授業が、、、と言うかもしれません。
それもあるでしょう。しかし、それらは一つのきっかけでがある場合が多いのです。

1) 聞いてみましょう「何かあったの?」と。
答えは期待しないこと。根堀り葉堀り聞かないこと。
感情的にならないこと。自分の想いを押し付けないこと。
「あなたに関心を持っている。大切な存在である。」ということを伝えることが目的だから。

2) 認めること
学校や職場に行かない、行けないことを指摘しないこと。
行かないとどうなるか、どれだけ大変なことか、困るかの話をしないこと。
 引き込もり状態になると、たいていは昼夜逆転し、お風呂や食事など日常生活が乱れてきます。
当然、家族は心配して注意したくなります。でも注意ではなく、声かけしましょう。
「ご飯できたよ」「お風呂わいたよ」「おはよう」「おやすみ」と。
家族の生活リズムを言葉で伝えましょう。
自分がどういう状態なのかは、誰よりも本人が一番知っています。

3)焦らないこと
一日も早く元の生活に戻って欲しいと焦らないことです。
やっと、ある意味で気づき、自己主張できるようになったのですから。
必要な時間をかけて、自らの意志で自分の人生を引き受けるようになると信じましょう。
人は誰でも「欠如」を自覚し「欲望」を持てば行動します。
動かない、動けないのは「欠如を自覚しない」「欲望がない」からです。
つまり、欠如を感じ(お腹がすいた)、欲望する(何か食べたい)から行動する(冷蔵庫を開けて探す、
スーパーやコンビニへ行く)のです。
決して怠け者ではないのです。
何らかの事情で欲望がなくなった、あるいは無いことに気づいてしまったのでしょう。

4) 気長に見守りましょう
家に引きこもっているのなら、家が一番の居場所です。学校が居場所の人もいるかもしれません。
友達の家が居場所なら友達の家に行くでしょう。居場所が無いと言う人には居場所を作ってあげましょう。
居場所が無いと、あちこち転々と居場所を求めるか、家の中の決まった場所に引き籠って動かないでしょう。
家以外の場所に出て行くからといっても、必ずしも社会へ出る一歩だとは限りません。

5) 悩み、苦しみは同じ悩みを持つ人と語り合い、吐き出し合い、学びましょう。
ただ、愚痴の吐き出し合いに終わるのではなく、気づいたことを話し合い、学び合いましょう。
「あなたのことを心配しているから」という名の下に、本人に吐き出すのは
双方にとって悪循環のもとになる可能性が高いからやめましょう。

6) これを機会に問いかけてみては?
不登校や引き込もりというメッセージはどういうメッセージなのだろうか?
何を言いたくて言えないのだろうか?
不登校や引き込もりがきっかけで家族に何か変化があったか?
今までとは違ってきたことはないだろうか?
本人だけではなく、家族全体のこととして見たとき、何か見えてくることはないでしょうか?

7) 必要だからしている
言葉で説明できないけれど、なぜだか解らないけど、これだけは確かなこと。
「今、自分にとって必要だからしている」

追記
・家族、本人が自ら「不登校」「引き込もり」と言わないこと。
 それらの呼称は、ある枠組みから付けられたもの。
 その言葉を自ら語るということは、それが意識的、無意識的であるに関わらず
 その呼称を自ら承認した、受け入れたということに繋がることだから。
 時には、その呼称が隠れ蓑のようになり、
 知らぬ間にその中が妙な居心地の良さを与え、
 そこからの歩み出しを目指しながらも、いつしか狭い居場所となり、時には排他的にもなるかもしれない。
 例えば
 「経験した人にしか分からない」
 「他の人に話したってどうせ理解してもらえない」
 「経験者同士だから、分かってもらえる、分かってくれているはず」
 「私たちは他の人達と違う」
こんな気持がどこかに生じたなら、同じ悩みや目的を持った場がいつしか単なる愚痴の吐き出し合いや
理解しない人たちへの非難や批判に終始する可能性が出てくる。
そして、そのことがその場に居る人の求心的で排他的なエネルギーとなって、逆にどんどん小さくなり
やがて消滅する可能性も出てくるかもしれない。

それを防ぐには、異分子だと思える他者を受け入れること。
その他者と同化するのではなく、異分子なら異分子のままでその場に抱き込みつつ
その異分子の目線から自らを見てみる。
これが求心力を持ちつつ、外へとどんどん広がってゆくパワーとなると思う。
それがひいては、家族の中にある様々な悩み、苦しみや問題にも通じるのではないだろうか?
物事の是非を問題にするのではなく、
なぜだか今は理解出来ないけれど必要な事柄なんだろうと抱き込んでゆく視点、
それを「承認」あるいは「受容」と呼んでよいと思う。

お問い合わせは シニフィアン研究所へ http://signifiant-lab.com/
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